今日配信のライジングに「不思議の国のHanada」について
書いているんだけど、その原稿では触れてないことを一つ。
『月刊Hanada』の独占手記のなかで、小川榮太郎氏が
『ヴェニスに死す』の主人公アシェンバッハを取り上げて、
妻子のいる異性愛者の作家が、中年になってベニスで出会った
美少年・タージオに恋をするという話があるように、
自分にも今夜タージオが現れれば、熱烈な同性愛者にならぬ
保証はない、と書いているんだけど・・・
『ヴェニスに死す』ってそんな短絡的な「同性愛者になる」作品
なのかなあ…?
あれを「同性愛」「少年愛」とジャンル分けしてしまうことも
できなくはないかもしれないけど、それってものすごい違和感が。
ビスコンティの映画では、前半で、体の弱ったアシェンバッハが
砂時計について語り、自分の芸術家としての人生について、
その終焉の時が迫っていることを匂わすような、
暗示的なシーンがあったと思う。
それから、友人と芸術論で激論する回想があり、
「美と純粋性は努力によって追求していくものだから、
道徳を保って自分の感覚をコントロールしなければならない」
という感じのことを言うアシェンバッハと、
「美は芸術家の創造などとは無関係に出現するもので、
狂気の悪魔のようなものなのだから、芸術家は邪悪さを持ち、
それを糧にして美を感じ取るのだ」
と言う友人とで意見が割れる。
そして、この二人の芸術論の決着が、ラストで示されるという
感じの構成になっていた。
アシェンバッハは、休養に訪れたベニスで絶世の美少年を見て、
その「美」にとりつかれ、見事に自分のコントロールを失う。
で、前半の暗示や、全編に散りばめられた苦悶を回収しながら、
ラストの美しい海岸の名シーンに至る。
あのラストシーンは、単に
「美少年に出会って同性愛者になってしまい、恋焦がれながら
死んでいく中年男性」
を表現しているのではなくて、
芸術家としての悔恨や、努力では得られない美と出会った歓喜、
それが自分の老いや死と引き換えになっている無念さ、煩悶、
自己愛への執着、自己投影、若返ろうと足掻いてしまう醜さ、
もう少しであの儚さが手に入るという恍惚感にすがった慟哭…
そんないろんな感情が入り混じっていると思う。
そしてそこに、
『やはり「美」は狂気に誘う死神だった』
と悟ってしまうほどの「美」を見つけてしまった残酷さ、
それによって終わるひとりの男の人生とが折り重なるから、
描き出された海岸の波光があれほど美しく記憶に残るのだ――
・・・というのが私の『ベニスに死す』の感想なんですが。
「同性愛者になる」例として取り上げるには、ちょっと作品を
短絡的なものにしすぎなんじゃないかなあ・・・